第31回国際マスターズARゲームズ

ケベック大会(2023年1月27日~29日)

出発直前、成田空港集合
まずは無事にニューヨーク到着、これからケベックへ
到着翌日、練習初日に仲間と再会

ようこそ、「インタクト・インシュランス・アイス・センター、“センター・デ・グラス”」、通称「ゲータン・ブッシェ・アリーナ」に。2020年に完成し、カナダで4番目(既存として3番目)の屋内リンクで、第31回国際マスターズARゲームズが開催された。ケベックの地で開催される国際マスターズゲームズは今回が3回目(1996年、2001年、2023年)で、2015年に第2回冬季世界マスターズゲームズ(WWMG)が開催されて以来のビックイベントとなる。

今回世界9か国(オランダ、ノルウェー、フィンランド、ドイツ、英国、米国、カナダ、ルーマニア、そして日本)から総勢126選手が、新しいリンクに集まった。2020年のカルガリー大会以来、コロナ禍で3年ぶりとなる海外大会に、日本からも5選手が手を挙げ、普段日本では滑ったことのない、オールラウンド競技(500-1000-1500-3000)に挑んだ。

参加戦士:         
M80竹内(海外大会10回目)
M75百瀬(海外大会10回目)
M75富成(海外大会 5回目)
M70近藤(海外大会13回目)
M65清澤(海外大会 2回目)
サポート:         
竹内さんの奥様と、髙井(筆)

我々日本チームのリーダー近藤は、1979年にショートトラックの世界選手権で、2015年のWWMGに続いて、今回で実に3度目のケベックでの競技会。1979の世界選手権で競技を共に戦ったゲータン・ブッシェ(サラエボ五輪金メダリスト)が、今回国際マスターズ競技会デビューで、久しぶりの再会(ブッシェのサインをTシャツにもらっていました)。また、長野五輪のSTリレーで金メダルを獲得したフランソア・ドゥロレットが参戦。2名の金メダリストオリンピアンがマスターズ競技に初参加し、今までのマスターズ競技会とは趣が異なり、TVニュースメディアも集まり、3日間の競技会は、観客で満員となった。

火曜日の夜遅くに到着した日本チームをカナダの親友マーティとジェネビーご夫妻が空港まで迎えに来てくれた。ここでは話がなくなるが、2015年に近藤がケベック到着した時の事件を知る者にとっては、この厚い歓迎はあの時を思い出す感動ものである。

翌日から早速練習開始。つるつる氷に冷や汗なのか、初日からみんなたくさん汗をかいた。懐かしい顔が徐々に集まってきて、3年ぶりの再会を喜んだ。オランダ大会でお世話になった、ピーターコーチとも再会し、大会に向けての戦略を練った。初日は快晴も気温氷点下。ホテルからリンクまで歩いて30分程度。毎日一列に並んで、リンクとホテルの往復の行進が続いた。

大会初日は500mと1500mの2種。我々日本チームは、5選手全員が65歳以上のグループであったため、ほぼ一緒に行動することができた。地下道を潜り抜け、リンク内に入場すると、受付ですぐにトランスポンダー(タイミングチップ)と指定の腕章を受け取った。マスターズ競技会で、トランスポンダーを装着しての競技は、みんな初めての試みで、少しでもタイムを短縮しようと、チップを足首前面に固定した。腕章もスタート直前に受け取ることがなくなり、予め順番と、滑走順を確認することができ、効率よくスタートに立つことができた。緊張の中始まった500mは、普段と変わらず一周して戻ってくると、大勢の観客の大歓声が待っていた。今までのマスターズ競技会ではない、まるでワールドカップを見ているような雰囲気だった。

3組  富成 56秒99 SB
4組  百瀬 56秒86   (日本人RR)
8組  竹内 1分7秒73SB(日本人RR)
9組  近藤 49秒69 SB(日本人RR)
13組 清澤 48秒31 SB(日本人RR)

続く1500mまで4時間の間が空いた。雪が降りだしたこともあり、リンク内で各自調整し、カルテットスタートの1500mに臨んだ。男子の組み合わせに変更が生じ、ペーパーレスで改版が配布されず、順番の確認に時間がかかった。さらに女子1500mが終了後に、臨時の男子500mが組まれたため、あわただしく男子65歳以上の1500mのスタートが予定より若干遅れることになった。一組目の竹内も、スタートレーンが変わり、更に開始時間を見誤ってしまい、1500mのスタートにギリギリ間に合った。(最初の冷や汗をかいた)初めて1500mを滑る富成も、最初の3週は順調に進んだが、最後のラップで大きくタイムを落としてしまった。両膝を痛めている百瀬は、他選手の誘惑に耐え、我慢のレースを展開した。その同組で光ったのは近藤。最初の入りも飛ばすことなく、余力を残す滑りで快走し、きれいにラップを刻んで他のライバルに食らいつき、クラス4位につけた。中距離を得意とするエース清澤は、最初の3週を40秒内に抑える完ぺきな滑りも、最後に大きく撃沈し、シーズンベスト更新とはならなかった。

1組 竹内 3分51秒20 SB            2種目終了順位 3位(日本人RR)
3組 富成 3分42秒26 SB(PR)2種目終了順位 8位
4組 百瀬 3分16秒75 SB(PR)2種目終了順位 7位(日本人RR)
4組 近藤 2分41秒99 SB    2種目終了順位 4位(日本人RR)
7組 清澤 2分33秒14       2種目終了順位 9位(日本人RR)

2日目は、1000mのみで、前日の滑りの反省もあり、気持ちが楽になったようで、みんなマイペースな滑りで、全員がSBを達成した。

2組  竹内 2分28秒34 SB 3種目終了順位 3位(日本人RR)
3組  富成 2分 8秒08 SB 3種目終了順位 8位
5組  百瀬 1分59秒94 SB 3種目終了順位 7位(日本人RR)
8組  近藤 1分41秒41 SB 3種目終了順位 4位(日本人RR)
13組 清澤 1分37秒04 SB 3種目終了順位 9位(日本人RR)

3日目最終日は部門対決のガチ勝負の3000m。ピーターコーチと事前に念入りに戦略を伝授された。コーナーの出口に構えるピーターの指示で、すぐにレーンを変えること、そしてピーターが最後のラップとコールするまでは、我慢して足を動かすこと。トップバッターの竹内は、失格しないようにと、順調に戦略通り進んだが、後ろの走者に追い抜かれて、ラップ感覚がなくなったのか、残り2周となるゴールラインで、滑走を辞めるしぐさを見せ、周りをハッとさせた。仲間の指示を受け、滑走を続けるも、更に最後のラップにもかかわらず、ゴールラインを越えたところで、達成感が先に沸き上がったのか?両腕を高々とあげたガッツポーズを見せた。慌てて、もう一周あることを伝えられ、滑走開始。タイムロスはあるものの、失格なく無事ゴール。観る方が、冷や汗をかいた。結果順位を一つ上げ、自身カルガリーで初めて獲得した銅メダルを上回る2個目のメダル、銀メダルを獲得した。おめでとう。

2組目の百瀬は、膝に負担を掛けないように、最初から立った状態でのスケートが続いた。ラップ1分をきれいに納めて無事完走。4組目の近藤は、格上の他の選手のスタートについていくことなく、マイペースにラップを刻んで、USAのジョンのタイムを上回る会心のレースでオールラウンドを占めた。エース清澤は、初日の反省が全くなく、最後の3週で撃沈し、大きくタイムを落とし、前日まで総合9位も、最終順位を11位まで落としてしまった。

M80 1組 竹内 8分30秒12 SB            2位(日本人RR)
M75 2組 百瀬 7分13秒38 SB            8位(日本人RR)
M70 4組 近藤 5分41秒70 SB            3位(日本人RR)
M75 5組 富成 8分22秒32 SB(PR)9位
M65 6組 清澤 5分38秒35 SB(PR)12位(日本人RR)

新しいリンクで日本人記録(ナショナルレコード)樹立を最大の目的に集まった5名。全員がSBを達成した。競技後に行われたバケット表彰式では、M80の竹内が銀メダル獲得で表彰され、今大会参加した5名の80歳以上が壇上で紹介され、喝采を浴びた。コロナ禍で、体を休めてしまう時期が長かったこともあり、みんな調整に苦労した大会も、我々日本チームは失格者もなく、無事完走できた。オリンピアンの初参加、トランスポンダー採用、大勢の観客、とても厚いおもてなしに、素晴らしい運営を全うされた組織運営委員会の方々には深く感謝したい。我々日本チームは、オールラウンドの面白さを痛感し、来年オランダで開催される第32回大会(24年3月8~10日:エンスケーデ)への出場での再会を誓った。

この後日本チームは、ニューヨークに移動し、冬季合宿を敢行した。毎日15,000歩の歩行あり、スマートフォンの使い方を学び、充実した合宿を終え、全員無事帰国した。2024年は、1月に山形で全日本後すぐにイタリアでの冬季世界MG、翌週のスプリント大会(コラロボ)と続き、3月のAR大会で集大成となる忙しい年になる。みんな一つ年を重ねる分、更なる準備をして、元気な姿で会場で会いましょう!

ゲータン・ブッシェと日本チーム
組織委員長ロブと一緒に
全競技全うした日本戦士
バンケットの日本チームのテーブル
80歳以上の参加者
M80竹内、日本チーム唯一の銀メダル獲得